転職を機に引っ越してきた一軒家は、築15年ほどの比較的新しい物件だった。前の住人が急に出て行ったため、相場よりもかなり安く借りることができた。不動産屋の担当者は「ご家族の都合で」とだけ説明してくれたが、私は特に気にしなかった。
引っ越して最初の夜、疲れ果てて早めにベッドに入った。深夜2時頃だろうか、階下から微かに音が聞こえてきた。トントン、トントンと、まるで誰かが軽く壁を叩いているような音だった。
「まだ荷物が片付いていないから、何かが倒れたのかな」
そう思って様子を見に行こうとしたが、音はすぐに止んだ。翌朝確認してみても、特に変わった様子はなかった。
それから数日間は何事もなく過ぎた。しかし、一週間が経った頃から、また奇妙なことが起こり始めた。
朝起きると、キッチンの食器棚の扉がいくつか開いている。前の晩には確実に閉めていたはずなのに。最初は地震のせいかと思ったが、近所の人に聞いても地震なんてなかったという。
「古い家だから、建て付けが悪いのかもしれない」
自分にそう言い聞かせながら、扉にテープを貼って固定してみた。しかし翌朝、テープは剥がされ、扉は再び開かれていた。
その夜、私は居間のソファで本を読んでいた。午後10時を過ぎた頃、二階から足音が聞こえてきた。ペタペタという、まるで素足で歩いているような音だった。
しかし、二階にいるのは私だけのはずだった。
心臓の鼓動が早くなった。泥棒だろうか。しかし玄関の鍵は確実にかけたし、窓も全て施錠している。それに、足音があまりにも軽すぎる。まるで子供のような…
足音は廊下を行ったり来たりしている。時々止まっては、また歩き出す。私は本を置いて、じっと耳を澄ませた。
やがて足音は階段の方に向かい、ゆっくりと一段ずつ降りてくるのが聞こえた。私は身を固くして、階段を見つめた。
しかし、誰も降りてこなかった。足音だけが確実に階段を降り、私のいる居間に向かってくる。そして私の真後ろで、ピタリと止まった。
振り返ることができなかった。背中に、誰かの視線を感じた。冷たい空気が首筋を撫でていく。
「だれ…か…いるの…?」
か細い声が耳元で囁いた。子供の声だった。女の子のような、か弱い声。
私は震える手で振り返った。しかし、そこには誰もいなかった。
翌日、意を決して近所の人に前の住人のことを聞いてみた。最初は口を濁していた老人だったが、やがて重い口を開いた。
「あの家にはな、小学生の女の子がいたんじゃ。確か7歳くらいじゃったかな。ある日、二階の窓から転落してしまったんじゃ。両親は…それから家にいられなくなったようでな」
私の血の気が引いた。
「その子は…?」
「亡くなったよ。可哀想にな。まだ幼くて、きっと何が起こったのかわからないまま…」
その夜から、現象はより激しくなった。夜中に二階で走り回る音、開けっ放しになる全ての扉、そして毎晩聞こえる囁き声。
「だれかいるの?」「いっしょにあそぼ?」「ひとりはさびしいよ」
私は引っ越しを決意した。しかし荷造りをしていると、またあの声が聞こえてきた。
「どこにいくの?」
今度ははっきりと聞こえた。振り返ると、階段の上に小さな影がゆらゆらと揺れていた。
「わたしも…いっしょに…つれてって…」
影は徐々に濃くなり、やがて7歳くらいの女の子の姿が見えた。白いワンピースを着て、長い黒髪を垂らした少女。その顔は見えなかったが、確実に私を見つめていた。
「ひとりは…いやなの…」
私は荷物を置いたまま、家を出た。もう二度と戻るつもりはない。
あの家には今も、誰かを待っている小さな住人がいる。新しい住人を、きっと今も探している。

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